タイトル 地底旅団ROVER元老院第99回CAVING
サブタイトル 奥多野かんな姫計劃・第5回田戸呂山之記解読会
分 類 調査ケイビング
入洞洞穴 立処鍾乳洞(立処山の鍾乳洞、立処鍾乳洞第1洞、立処山第1洞、井戸穴、大黒洞)、立処鍾乳洞第2洞
日 程 2003年5月10日(土)〜11日(月)
参加者 村野て、千葉、酒井、中野 以上4名
甘楽町小幡・中小路
江戸時代の面影残る中小路
甘楽町秋畑字梅ノ木平
秋畑へかかり梅平を過て
神流町栗木平
芝山にて栗の木多し
神流町万場・旧黒沢八右衛門邸
此所に八右衛門と云豪富有
神流町神ヶ原・黒沢覚太夫邸跡地
郷士黒沢覚太夫が許に着す
神流町神ヶ原・神流川
流れの小橋を渡れは河原にてる
立処山
嶮岨を攀登る事五十歩斗
立処山・榛名山信仰祠
榛名山の祠にて近年覚太夫勧請せし
立処鍾乳洞第2洞・洞口
此口圓にして口たり壱丈斗
立処鍾乳洞・玉簾
垂たる鍾乳ハ玉簾を掛けたるか如く
立処鍾乳洞・鯨の顎
鯨の鰓の如き鍾乳も有
立処鍾乳洞・霊水
霊水有所に至る
天保8年(1837)、朝倉良次・小林伊常らによって著された立処山の洞穴探検絵巻「田戸呂山之記」の5回目の解読会である。2002年8月29日に第1回の解読会が開かれて以来、4回の解読会を重ね、遂に絵巻のほぼ全文の解読に成功した。今回の活動は絵巻の記述内容の実地検証として企画した。


10日20:00、村野・千葉は府中を出発、入間ICから圏央道、関越自動車道へと入る。

21:30、高坂SAにて守谷組(酒井・中野)と合流。

22:30、藤岡ICで高速を下りる。当初はインターそばの道の駅「ふじおか」での幕営を考えたが、周辺のパチンコ店などのネオンや街灯がうるさく、ここでの幕営を断念、多野郡新町にある神流川古戦場へと向かう。ここは現在は「神流川ピクニック野草広場」となっており、先程の道の駅とは一転、街の灯がほとんど見えず、トイレ・水道もあって、時折近くの鉄橋を列車が通過する音が聞こえる以外はいたって静寂、幕営には最適なポイントといえそうである。駐車場脇の木立に設営後、軽く飲みながらミーティングを開く。

25:30、消灯。


11日6:30、起床。あいにくの曇り空。テント入り口を開けて朝食を摂っていると、目の前の駐車場にどこからともなく車が次々と・・・。昨夜はよく見えなかったが、駐車場の向こうが野球場となっており、どうやらこれから朝の練習が始まるようである。いよいよ人が集まってきたので速やかに撤営。

7:30、ピクニック野草広場を後にする。絵巻に記述された地名をつないで写真撮影して巡る、ドライブの始まりである。
まず向かったのは新町中心部。ここは中山道の、日本橋から数えて11番目の宿場・新町宿として栄えた所である。絵巻には、ここから藤岡方面・三株山(現在の御荷鉾山)を眺めた絵図が描かれている。おそらく江戸の住人であった朝倉らはこの宿場に到着後、中山道を離れて藤岡方面への道に入り、甘楽町小幡の城下町へと向かったのであろう。郵便局に車をとめ、旧中山道の町並みおよび藤岡方面分岐点を撮影した。次に新町駅歩道橋から絵図通りの構図で、藤岡方面、御荷鉾山の撮影を試みたが、曇り空であったため山は見えなかった。

8:30、城下町の小幡中心部にある甘楽町歴史民俗資料館に到着。資料館の開館は9:00からであったが、係の方が我々の存在に気付き、特別に早く見学させてもらえることになる。ここで甘楽町の歴史や伝統芸能の獅子舞、絵巻にも記述されていた紙漉き産業ことなどについて30分ほどかけてじっくりとお勉強。その後、資料館で貰った地図を片手に小幡の町をそぞろ歩き。時代劇に出てくるような白壁の通り、武家屋敷の庭園、藩邸・楽山園跡地などを見学。端から見たらとてもケイビング団体の活動には見えないだろう。我々も名物(?)とうもろこしかりんとうや味噌まんじゅうをパクつき、地ワインの試飲コーナーに押し駆けるなど、タダの観光客と化してしまい、出発予定時間を大幅にオーバー。10:20出発となった。
小幡から先は轟(とどろく)、秋畑、梅平(現在の梅ノ木平と推測される)など、絵巻に記述された集落を次々とつないで走って行く。道沿いには荷運び馬の供養のために安置されたと思われる馬頭観音塔が多く残されており、歴史の古さを感じさせる。絵巻では梅平から五十町(約1.2キロメートル)ほどで行く手に稲含山が見えると書かれているが、これも梅ノ木平から1.2キロほど進んだ来波集落でヒアリングを行ない、谷間の正面奥に見える山頂が稲含山であることを確認。
秋畑地区最奥の那須集落を過ぎると絵巻にも「山中の山道なり」と書かれた、人家も稀な山道へと入って行く。車道も鋪装はされているものの林道のように狭くなり、対向車とのすれ違いも困難そうな箇所が多くなった。探検当時は相当険しい山道であったはずで、朝倉らはさぞ苦労したのではなかろうか。
ひと山越え、会場集落までやって来るとようやく目の前に東御荷鉾山(オドケ山、西御荷鉾山)が見えた。ここから先、塩沢峠を乗り越え、万場の町へと出るまでまだまだ山道が続く。絵巻ではこの秋畑〜万場の区間で分れ道があり、山は潅木で栗の木が多いと記述されているが、現在は大半が杉の植林となっており、当時の様子はほとんど残されていないようである。分れ道は現在の栗木平と呼ばれる地点であると推測した。なお、この栗木平には人家が一軒だけあり、ちょうど家の方がたき火をされていたので話を聞いたところ、以前この地に住んでいた方々は現在はみな麓に下りてしまったそうである。地名からいかにも栗の木が多そうだが、どれが栗の木だかよく分らない。栗の実がなる頃に再び訪れたいものである。

12:30、万場出発。途中、道の駅「万葉の里」で昼食を取る。

14:10、「木古里」到着。おにぎりなどを御馳走になりながら、御主人の高橋さんに絵巻の解読成果を説明する。次に住宅地図を使って神ヶ原村の名主、黒沢覚太夫邸の場所を教えていただいた。またこの時、絵巻に描かれた神ヶ原の小橋というものが、現・古鉄橋の真下に設置されていた丸太橋であったことも判明した。木古里を発ち、覚太夫邸の場所を確認。現在は当時の名残りはなく、畑となっていた。
その後、再び「木古里」に戻る。この頃は雨も激しくなり、一時土砂降り。

15:30、小雨となったので立処山登山を決行する。まず絵巻に記された榛名山の祠に向かう。

16:10、榛名山の祠到着。石灰岩の岩壁の途中の小平地にぽつんと置かれた石祠であって、お参りするにもかなりコワいところである。祠の左右にはなにやら文字が刻まれている。向かって左側は永年の風雨にさらされたためか、判読は出来なかった。次回拓本を試みたいところである。
一方、右側は文字がはっきり残っており、「天保六年 未四月六日 神原村 三津川」と読めた。天保六年といえば探検が行なわれた2年前であり、絵巻に「榛名山の石祠は近年、覚太夫により勧請された」と書かれている通りである。つまり朝倉らが見たものと同じ祠が現在も残っているわけで、それを思うと感慨深いものがある。
また、この祠のわずか下の地点からは神ヶ原の覚太夫邸跡地も視認でき、これも絵巻の記述通りであった。

16:20、「立処鍾乳洞第2洞」に向かう。

16:30、「立処鍾乳洞第2洞」到着・入洞開始。絵巻では2つの洞穴に入洞しており、最初に入った洞穴は、洞口の位置の記述などからこの第2洞であると推察される。しかしながら、絵巻の記述では祠から第2洞へは50歩(約90メートル)の移動を要しているのだが、どう見てもそんなに距離はないし、また絵巻の記載されている洞穴の規模や二次生成物の量などが、現在の第2洞の様子とは明らかに違う感じである。すなわち、絵巻ではこの洞穴は総延長約200メートル、二次生成物も豊富であるはずなのだが、第2洞は規模が小さく二次生成物もほとんど見られない。最初に入った洞穴が第2洞であると言うには疑問符がついてしまう。

17:00、出洞。

17:10、「立処鍾乳洞」到着・入洞。この洞穴は絵巻で2番目に入洞したと思われる洞穴である。こちらは規模および洞内の様子が絵巻と完全に一致(三日月型の洞口、石柱、玉簾や鯨のアゴの様な鍾乳石、水が湧くところなど)。朝倉らが探検したのはこの洞穴であると判断して間違いなさそうである。ただし一ヶ所だけ、この洞の最大の見どころと讃えられた、観音像のような石筍は発見することが出来なかった。もしかしたら後世、盗掘されてしまったのかも知れない。
活動終了連絡時間が迫ったため、村野てが一足先に出洞。残りのメンバーで洞口付近の支洞で虫の採集を行なう。採集したのはホラズミナガコムシほか2種。またこの間に千葉が2メートルほどの未測量部を発見する。

18:20、完全出洞。

19:00、「木古里」到着。採取した虫をエタノール処理しながら御主人としばしの談話。

19:30、「木古里」を後にする。

20:00、「小鹿荘」で入泉後、秩父市内のファミレスで夕食。

22:00、流れ解散となった。


今回の活動は通常の洞内活動とは異なり、移動が多く盛り沢山の内容となった。そのためかなりのハードスケジュールとなってしまったが、その分、多くの収穫を得ることが出来た。ただし天候が良くなく、絵巻に描かれた絵図と同じ構図の山々の写真を満足に撮影することが出来なかったので、次回、追加調査としてこのような不十分だった箇所を補完する活動を企画したい。(文責 村野哲雄)

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