道中日記 4-191 中山道 ( 高宮 - 鏡神社 ) 25.8km

 

 例によってスッキリ目覚めました!

洗濯物はシッカリ乾燥しています!!

テレビを付け、天気を確認します、上々です!!!

朝食はホテル近くの
なか卯です、納豆朝食です。

私は混ぜた
納豆ご飯の上に掛けません、ご飯の方を納豆の器に入れます、これでご飯に納豆の香りが移りません。

生卵黄身白身に分け、無論黄身はご飯の上に掛け、白身はゴックンです、これにて準備OKです。

頃合いです、それでは二日目に取り掛かりましょう。

 平成24年09月26日 AM 06:11 高宮宿出立 愛知川宿まで 8.0km

 高宮町大北交差点の木之本分身地蔵尊が継立ポイントです、それでは出立です。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると高宮宿の規模は本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠二十三軒、宿内人口三千五百六十人(男一千七百五十五人、女一千八百五人)家数八百三十五軒、宿並七町十六間(約800m)でした。

高宮宿は
多賀大社の門前町として発展し、特産品の高宮上布の集散地として大いに賑わったと云います。

この
高宮上布は毎年彦根藩によって幕府に献上され、風通しが良く、夏の着物に適し、人気が高かったと云います、この高宮布近江商人によって全国展開し、近江商人の主力商品でした。

宿並の左手に
布惣跡(ぬのそう、現、座・楽庵)があります、高宮布の問屋跡です、高宮布の生産は江戸時代になると増々盛んになり、布惣では七つの蔵が高宮布の集荷で一杯になり、これが年に十二回繰り返されたと云います。
木之本分身地蔵尊 布惣跡

 宿並の右手布惣跡の向いに高宮神社があります、春期例大祭には胴回り6mの大太鼓が登場します。

鎌倉時代の創建で
高宮宿の氏神です、縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神です、本殿は延宝六年(1678)の建立です。

随神門横の
笠砂園に嘉永三年(1850)建立の芭蕉句碑「をりをりに 伊吹を見てや 冬籠」があります。

この句は芭蕉四十八歳の時、伊吹山麓にあった大垣藩士で芭蕉の門人だった
岡田氏千川亭に立ち寄った時に詠んだものです。

ここでは冬を迎えると雪囲いを立て、風除けを作って
冬籠り(ふゆごもり)しました。

参道の左(西)の長い塀と白壁の蔵がある旧家は
元庄屋宅です。
高宮神社随神門 芭蕉句碑 元庄屋宅

 宿並の右に馬場提灯店があります。

高宮郵便局の隣が高宮鳥居前交差点です、交差点左に
多賀大社一の鳥居が聳えています。

この一の鳥居は寛永十二年(1635)建立の
石造明神鳥居です、多賀大社社殿が元和元年(1615)火災で焼失し、寛永年間に造営されているので、その際に建立されたものと云います。

鳥居脇には
道標「是より多賀道三十丁」があり、鳥居をくぐった右手には常夜燈があります、常夜燈の背には石階段が設置されています、往時は対であったと云います、ここには尚白句碑「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」があります、尚白(しょうはく)は芭蕉の弟子です。
馬場提灯店 多賀大社鳥居 多賀大社常夜燈 多賀大社道標

 多賀大社
はここから約3.7kmの所に鎮座しています、多賀大社の祭神は伊勢の天照大神の親神にあたるところから「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」と云われ延命長寿の神として崇敬をあつめました。

秀吉は母大政所の延命を祈願し、春日局は二代将軍秀忠の病気平癒を祈願し、多賀信仰が盛んになり「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さんへは月詣り」と大層賑わったと云います。

 左手仲町会館の向いが芭蕉紙子塚がある小林家です、門脇には俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚碑があります。

貞享元年(1684)冬、縁あって小林家で一泊した
芭蕉は着用の紙子(紙で作った衣類)が古く汚れていたため、粗末な扱いを受けました、そこで芭蕉は「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠みました。

翌日、主は
芭蕉と知り、新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後庭に塚を造り古い紙子を納め紙子塚と名付けました。

右手今村歯科医院の先が
塩谷脇本陣跡です、問屋場を兼ねていました、建坪は七十一坪でした。

門脇は
高札場跡です。

脇本陣跡の隣には無料の
資料館高宮宿ふれあいの館があります。
小林家 紙子塚 塩谷脇本陣跡

 脇本陣跡の向いの路地を左に入ると高宮寺(こうぐうじ)があります、元は天平四年(732)に行基が開いた十一面観音を本尊とする称讃院(しょうさんいん)と云う天台宗の寺でした。

その後、
高宮城主宗忠時宗道場に改め、建治三年(1277)真教によって開基され、称讃院高宮寺となりました。

ところが織田・浅井の戦いで
大伽藍が焼失し、それから百年後に住民の願いが村々を勧化し、元禄五年(1692)現在の本堂が完成しました。

境内の
千命堂(せんみょうどう)には井伊家第四代藩主直興(1656〜1717)が寄進した石像延命地蔵菩薩が安置されています。

高宮寺先の高宮小学校辺りが
高宮城跡です。
高宮寺 千命堂 高宮城跡

 高宮城
高宮氏の居城でした、高宮氏は小谷城の浅井氏と命運を共にした為、高宮城は織田方の六角氏に攻められ落城しました。

 宿並に戻ると右手に浄土真宗本願寺派三光山円照寺があります、明応七年(1498)高宮氏の重臣北川九兵衛が仏堂を建立したのが起源と云います。

山門前に
明治天皇行在所聖跡碑があります、明治十一年(1878)北陸東海巡幸の際、当寺に宿泊しています。

境内には
止鑾松(しらんのまつ、二代目)があります、明治天皇の宿泊に際して、松の大木が邪魔をして乗り物が通れないところから伐採を命じられましたが、和尚はこれに抵抗したところ、明治帝は自ら歩いたと云います、以来(天皇の乗り物)をめた所から止鑾松と呼ばれるようになりました。

本堂前には
家康腰掛石があります、元和元年(1615)大阪夏の陣に向かう際、当寺に立寄っています。
円照寺 止鑾松 家康腰掛石

 
芭蕉も当寺に宿泊しています。

 円照寺の向いが本陣跡です、表門を残しています、敷地四百四十八坪、建坪百二十三坪でした。

本陣から六軒南に
小林脇本陣がありました。

無賃橋手前の右手に
むちん橋地蔵があります、昭和五十三年(1978)高宮橋の改修工事の際、橋脚下から発掘された二体の地蔵を祀っています。

無賃橋(現高宮橋)で犬上川を渡ります。

犬上川は鈴鹿山脈に源を発する北谷川(きたやがわ)と南谷川が落合い犬上川となり、流末は琵琶湖に注いでいます。
本陣跡 むちんはし むちん橋地蔵 犬上川

 天保のはじめ、彦根藩はこの地の富豪藤野四朗兵衛小林吟右衛門馬場利左衛門らに架橋を命じ、一般から浄財を募り、天保三年(1832)に完成し、渡り賃を取らなかったところからむちん橋と呼ばれました。

広重は高宮として、松並木を左右に配置し、西から見た渇水期の犬上川そして橋脚だけのむちん橋を中央に描いています。

その先には
常夜燈が立ち、高宮宿の家並みが続き、遠景に伊吹山を描いています。

そして画面の中央に二人の婦人を描いています、婦人が背負っている藁包は高宮布になる麻の原料です。
無賃橋(現高宮橋) 木曽海道六拾九次之内 高宮 広重画

 橋を渡ると右手に大木を用いた高宮宿碑、左手には牛頭天王道道標があります。

四の井川新安田橋で渡ると旧法士村(ほうぜむら)に入ります。

新安田橋を渡ると左手に
法士一里塚跡標石があります、江戸日本橋より数えて百二十里目です。

法士町自治会館の裏には
地蔵堂があり、その奥には八幡神社があります。

楓並木を過ぎると
旧葛籠村(つづらむら)に入ります。
牛頭天王道 法士一里塚跡 法士町地蔵堂 八幡神社 楓並木

 葛籠村の真言宗延命山月通寺の本堂には行基作と伝わる地蔵菩薩が安置されています。
山門は左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りとなっている薬医門と呼ばれるものです。

スグ先の右手に
(うぶ)の宮井戸があり、小屋組み中には足利氏降誕之霊地と刻まれた手水鉢があります。

竹林の奥に
産の宮があります、南北朝騒乱の頃、足利尊氏の子室町幕府二代将軍義詮(よしあきら)は文和五年(1356)近江美濃を平定し京に戻る際、同行の妻妾がにわかに産気づき、ここで男子を出産しました。

義詮は
家臣九人を付人として残し、保護させましたが、子は幼くして亡くなり、生母は尼となり(松寺)を結び、子の菩提を弔ったと云います。
月通寺 手水鉢 産の宮

ここに土着した家臣九人は藤蔓(ふじつる)で葛籠を作り生計を立てたと云います、これが村名の由来になっています。

葛籠村は
立場でこの葛籠行李(こうり)が名産でした。

スグ先の左手には真宗大谷派甑谷山(そうやざん)
還相寺がありまうす、法意による開基で、ご本尊は阿弥陀如来です。

向いには浄土宗摂取山
了法寺があります大正元年(1912)貞安による開基です。
還相寺 了法寺 堂の川地蔵尊 鹿嶋神社

 高崎医院の並びには堂の川地蔵尊があります。

向いが鹿嶋神社です、武甕槌神(たけみかづち)を祭神とする神社です、この神は
武神であることから武家の崇敬を受けました。

 葛籠村の外れで街道は松並木になり田園風景が広がります、先の左手に彦根市モニュメントがあります。

三本の石柱の上には麻の原料を背負った
婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人の像が乗っています。
彦根市から出る側には
またおいでやす、入る側にはおいでやす彦根市と刻まれています。

出町交差点を過ぎると
旧あまご出村に入ります、左手に日枝神社があります、対の常夜燈の奥に明神系台輪鳥居があります、本殿は小さな造りです、村の鎮守です。
街道松 彦根市モニュメント 日枝神社 街道ケヤキ

出町にはケヤキ並木を残しています。

 四十九院交差点の右手に縣社阿自岐神社社標次いで対の常夜燈そして鳥居があります、鳥居は現在改修工事中です、ここから右(西)に約780m入ると阿自岐神社があります。

応神天皇の時代にこの地を開発した
百済の渡来人阿自岐氏が祖神を祀った神社です。
三間社流造りの
本殿は文政二年(1819)の建立です。

犬上川の伏流水が湧き出る
池泉多島式阿自岐庭園は阿自岐氏の邸跡で日本最古の名園と云います。

この辺りの地名の
安食は神社名の阿自岐に由来しています、この地は食物に恵まれ安住できるところを意味しています。

左手四十九公民館先を左に入ると
先人を偲ぶ館があります、豊郷に生まれ全国で活躍した八人の傑人を紹介しています。
阿自岐神社鳥居 先人を偲ぶ館

[ 八人の八傑 ]
藤野喜兵衛 : あけぼの印の缶詰で、その偉業が知られています。
薩摩冶兵衛 : 母や郷里の人々を生涯支え続けました。
伊藤忠兵衛 : 現在の伊藤忠商事や丸紅の創始者です。
七代目伊藤長兵衛 : 医療施設の乏しかった豊郷に財団法人豊郷病院を設立しました。
北川嘉平 : 全国の産業組合の模範とされ厚生社創設を支えました。
碓居龍太 : 医学研究に生涯を捧げました。
古川鉄治郎 : 巨額の私財を投じて最新設備が整った豊郷小学校を落成させました。
村岸峯吉 :地 下水利用の灌漑を完成させました。

 旧四十九院村の、四十九院とは行基が天平三年(731)この地に四十九の寺院を建てたことに由来しています、唯念寺はその四十九番目です、行基作の阿弥陀如来像弥勒菩薩像が本尊として安置されています。

スグ先の左手には
春日神社があります、四十九院鎮護の神として院内に勧請されたものです。

四十九院から
石畑に入ると左手に豊郷小学校旧校舎群があります、昭和十二年(1937)丸紅専務古川鉄次郎の寄付よって建てられた、鉄筋造りの小学校で、東洋一と云われました。
唯念寺 恵林寺 春日神社 豊郷小学校旧校舎

 鉄次郎は伊藤忠兵衛の丁稚奉公からの叩き上げで、忠兵衛の右腕となって活躍しました、身の回りは質素で通し、公共の福祉には大金を惜しまなかったところから、近江商人の見本と云われました。

ウイリアム メレルヴォーリズ設計の
旧校舎は建て替えか保存かで揉めてマスコミを賑わさせた小学校です、今は複合施設となって保存されています。

豊郷小学校の向いにやりこの郷碑があります、碑には弓矢があしらわれています。

昔、この地が干ばつに見舞われると、村人は
阿自岐神社に雨乞いを祈願しました、すると「安食南にある大木の上から矢を放てば、矢の落ちたところから水が湧く」とお告げがありました。

その通りに矢を射ると阿自岐神社の東の地面に突き刺さり、その矢を抜くと
清水が湧き出したと云います。

この清水を
矢池と名付け、矢を放った大木を矢射り木と呼ばれ、それが訛ってやりこになったと云います。

今日、大木のあった所が
矢り木と云う、地名になって残っています。

豊郷小学校の隣が
八幡神社です、石畑を領していた佐々木氏の家臣石畑民部大輔宗信が延応元年(1239)男山八幡宮(京石清水八幡宮)を勧請したものです。
やりこの郷 八幡神社

 八幡神社前には中山道一里塚の郷石畑と刻まれた碑があります、石畑の一里塚跡です。
江戸日本橋より百二十一里目です。

碑の後ろにはミニチュアの
一里塚が復元されていますが、実際の塚位置はこの先です。

石畑の地は文治元年(1185)源平争乱屋島の合戦で弓の名手として名を馳せた那須与一の次男石畠民武大輔宗信那須城を築き、この地を納めていました。

石畑は高宮宿と愛知川宿の間の宿として発展し、立場茶屋がありました。

八幡神社の奥には浄土真宗本願寺派
称名寺があります、文治元年(1185)那須与一の次男宗信の創建です。
一里塚跡碑 復元一里塚 称名寺

 先に進むと彦根警察署豊郷警察官駐在所岩田種苗花園の間居宅介護支援センターの辺りに、本来の石畑の一里塚がありました、塚木はで、塚上からは琵琶湖が望めたと云います。

 スグ先の右手に大村歯科医院があり、その手前を左に入ると犬上の君屋敷跡(豊郷駅前公園)があります。

犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)は遣隋使遣唐使を歴任し、後に犬上君白麻呂(しろまろ)は高句麗に派遣され、対外交渉の分野で活躍しました。

くれない公園手前を左に入ると
犬上神社があります、祭神は犬上君の始祖と云われています。

この地は
百済から入植した帰化人が開いた土地です、その王は農耕を振興したところから稲神(いねがみ)と呼ばれ、これが転化して犬上になったと云います。

伝説によると
犬上の君飼い犬が激しく吠えかかり、これに怒った君が犬の首を刎ねてしまったと云います。
豊郷駅前公園入口 犬上の君屋敷跡 犬上神社

 
すると首は宙を飛び、松の木の上で君を狙っていた大蛇の喉を喰い破りました。

君は哀れに思い、胴を埋葬し、頭を持ち帰り、祀ったのが
犬頭明神と呼ばれている犬上神社と伝わっています。

 くれなゐ園伊藤忠兵衛の功績を讃え、昭和十年(1935)に造られた公園です、公園中央には肖像がはめ込まれた伊藤忠兵衛翁碑があります。

隣が
伊藤長兵衛家屋敷跡です、若林長次郎は十六歳で伊藤長兵衛商店に丁稚奉公として入りました、二十二歳で六代目伊藤長兵衛(初代伊藤忠兵衛の兄)の養子となり、長兵衛の次女と結婚し、七代目伊藤長兵衛を襲名しました。

丸紅商店を設立して初代社長に就任し、後に私財と自宅敷地の大部分を寄付して豊郷病院を開設しました。

その隣は
伊藤忠兵衛屋敷跡です、今は伊藤忠兵衛記念館になっています、五代目伊藤長兵衛の次男として生まれ、兄六代目伊藤長兵衛と共に近江麻布の行商から身を起し、伊藤忠商事丸紅を創設しました。
伊藤忠兵衛翁碑 伊藤長兵衛家屋敷跡 伊藤忠兵衛屋敷

 慈徳寺を過ぎると右手奥に天雅彦神社(あめわかひこじんじゃ)があります、この地の総鎮守の氏神様です。

戦国時代、
佐々木京極氏家臣高瀬氏がこの地に城を築くとその守護神となりました、往時は境内に市が立ち、大いに賑わったと云います。

参道口の左手には造り酒屋
西澤藤平商店があります、銘酒出世誉の蔵元です。

一般に、滋賀の地酒は
旨味のある酒と評され、ふくよかで奥行きのある味の酒が多く、それでいて後味がすっきりし、切れ味が良いと云います、素晴らしいですね!

高野瀬から沢に入ると、ニシキ会館の前に
金田池碑があり井戸のモニュメントがあります。
天雅彦神社 西澤藤平商店 金田池碑

 ここより北約50mの所に金田池と呼ばれる湧水があり、この地の田畑を潤し、中山道を旅する人達の喉を潤してきました。

井戸の脇には水の香る郷四ツ谷碑西沢新平家邸跡碑があります、造り酒屋との関連でしょうか。

 下枝(しもえだ)に入り、日枝郵便局を過ぎると右手に又十屋敷があります、豪商藤野喜兵衛屋敷跡です。

江戸末期より
蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人です。
明治になると我国初めての
鮭缶の製造を始め、アケボノ缶詰に受け継がれています。

尚、ここには
一里塚跡碑がありますが、これは豊郷町石畑にあった碑をここに保存したものです。

先の右手に
千樹寺があります、門前に江州音頭発祥地碑伝統芸能扇踊り日傘踊り中山道千枝の郷碑があります。

千樹寺は臨済宗永源寺派で行基創建四十九院の一つで、観音堂とも呼ばれていました。
又十屋敷 一里塚跡碑 江州音頭発祥地碑

 信長の兵火にかかり寺は焼失しましたが、天正十四年(1586)に再建され、その時落慶法要が営まれ、住職
根興上人経文に面白い節をつけたところ、土地の人々がそれに合わせて舞い踊ったのが、江州音頭の始まりと云わっています。

再び寺が焼失すると弘化三年(1846)近江商人藤野喜兵衛(又十)の先祖太郎右衛門によって再建されました。

毎年八月十七日観音盆扇踊り日傘踊りが好評を博しています。

 宇曽川歌詰橋で渡ります、宇曽川は鈴鹿山脈に源を発し、湖東平野を潤し、岩倉川を吸収して、流末は琵琶湖に注いでいます。

この川は古くから水量が豊富で
舟運が盛んであったため運槽川(うんそうかわ)と呼ばれていましたが、いつの日か転訛しうそ川と呼ばれるようになったと云います。

歌詰橋はかつて十数本の長い
丸太を土台にして、その上に土を盛った土橋でした。

歌詰橋平将門に由来しています、天慶三年(940)平将門藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられ、京まで運ばれました。

この橋まで来ると、
将門の首が転げ落ち、目を見開いて秀郷に襲いかかってきました。

秀郷はとっさに
歌を詠んでほしいと頼むと、首は歌に詰まって橋上に落ちました。

それ以来、村人はこの橋を
歌詰橋と呼ぶようになったと云います。
歌詰橋 句 碑

 橋を渡ると右手に句碑があります、作者不明です。

 東京都千代田区大手町に平将門の首塚(将門塚)があります、京の都大路に晒された首級は三日目の夜に舞い上がり、ここに落ちたと伝わっています。
橋を渡ると
豊郷町上枝から愛荘町石橋に入ります。

スグ先左手に浄土真宗本願寺派
普門院があります、裏に将門首塚があります、実際には山塚古墳円墳と云います。

愛荘町(あいしょうちょう)消防団石橋班消防器具庫の隣に
地蔵堂があります。

次いで街道の左手に浄土真宗本願寺派甘露山
正光寺があります。
将門首塚 地蔵堂 正光寺 石部神社

 石橋
から沓掛に入ると左手に石部神社があります、式内石部神社社標があり、対の常夜燈の奥に石造神明鳥居があり、参道には石灯籠が並んでいます、延喜式に記載されている古社です、石を扱う石作部(いしつくりべ)に由来しています。

 沓掛交差点を越すとY字路になっています、沓掛の三叉路です、右に進みます。

この三叉路には道標
旗神豊満大社があります、近江鉄道愛知川駅の南に鎮座しています、地元では旗神さんと呼ばれ、親しまれています。

神功皇后軍(じんぐうこうごう)の軍旗を祀って創建されたと伝えられ、軍旗の守護神です。

境内の竹を切って
旗竿にすると戦に勝つと云われ、源頼朝をはじめ多くの武将が戦勝祈願を行いました。

沓掛と中宿の境を流れる小川を左(西)に入ると
井上神社があります。
沓掛Y字路 旗神豊満大社 井上神社 河脇神社

 ここには豊富で清浄な湧水があり、この清水を神に供え村人の飲料としたので、このに一社を創建し、菅原道真公を勧請して産土神として祀ったものです。

次いで愛知川小学校を過ぎると右手に河脇神社台輪鳥居が聳えています、
古社です。

 街道を進むと中山道愛知川宿ゲートが街道ウォーカーを出迎えてくれます。

ゲートをくぐると左手に
地蔵堂があります、宿口で旅人を見守っています。

左手の湖魚季節料理の
近江商人亭三角屋中宿店田中新左衛門旧本宅です、田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を商った近江商人の豪商です、建物は文化庁登録有形文化財です。

右手に創業慶応元年(1865)の菓子店
しろ平老舗があり、この手前に郡分延命地蔵堂があります、堂脇には多数の地蔵道祖神が集められています。
愛知川宿ゲート 地蔵堂 田中新左衛門旧本宅 郡分延命地蔵堂

  地蔵堂脇を流れる中の橋川中宿愛知川宿の境であり、神崎郡愛知郡の境です、これが郡分(ぐんわけ)地蔵の由来です。

 AM 9:13 愛知川宿着 武佐宿まで 11.1km

 郡分地蔵堂前に愛知川宿北入口碑があります、愛知川宿到着です。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると愛知川宿の規模は本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠二十八軒、宿内人口九百二十九人、家数百九十九軒、宿並五町三十四間(約607m)でした。

愛知川は恵智川、越知川、愛智川とも書かれ、地名は宿の西外れに流れる愛知川に由来しています。

愛知川は中世東山道時代からの宿駅で、
近江麻布の生産及び集散地として栄え、東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった宿でした。

皇女和宮は愛知川宿に宿泊しています。

信号交差点にて県道214号線を横断すると、左手に
ポケットパークがあります、ここにはむちん橋由来広重画恵智川レリーフ、そして明治四年(1871)郵便創業時に使われた書状集箱(しょじょうあつめばこ、黒ポスト)が再現されています、現役です。
北入口碑 ポケットパーク

 右手宝満寺の参道口には親鸞聖人御旧跡標柱があります。

宝満寺には親鸞手植えの
紅梅や直筆の掛け軸があります。

当寺は本願寺中興の祖と云われる
蓮如上人御影道中の定宿として知られています。

御影道中は、蓮如上人の没後、北陸での教化のご苦労とその徳を偲んで、京都東本願寺吉崎御坊(現福井県あわら市、吉崎別院)間を往復する行事です。

毎年五月七日の晩に愛知川宿の家々は提灯を掲げ
、御影道中の一行を迎えます。

参道口左の
日本生命愛知川営業部の所が西沢本陣跡です、建坪は百四十二坪でしたが、遺構は残されていません。
宝満寺 親鸞手植紅梅 西沢本陣跡

 右手に八幡神社があります、桧皮葺の本殿は寛文十一年(1671)の建立です。

聖徳太子がこの地で物部守屋との戦いで身の安全を祈願し、神託により当社に身を潜めて難を免れたと云います。

八幡神社参道口の左手常夜燈横が高札場跡です、ここには標石があります。

神社の隣は
紅殻塗りの旧家です、その隣の空き地が藤屋脇本陣跡です、建坪は百三十一坪でした。

事務用品の帯武商店手前の左手に
問屋跡碑があります。
八幡神社 高札場跡 藤屋脇本陣跡 問屋跡 赤かぶら漬け

 問屋跡先、左手のマルマタ商店は文政十一年(1828)創業の赤かぶら漬けの老舗です、食してみたいですね。

 左手、旅館味吉屋(0749-42-2319)と路地を挟んだ隣が割烹旅館竹平楼です。

宝暦八年(1758)創業の元
旅籠竹の子屋で文化庁登録有形文化財です、今は鯉のあめ煮が名物です。

ここには
明治天皇御聖蹟碑があります、明治十一年(1878)明治天皇が北陸東山道巡幸の際、ここで休息しています。

この巡幸には
侍従長の岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟等が随行していました。

この辺りが愛知川宿の
西口です。
割烹旅館竹平楼 明治天皇御聖蹟碑 不飲川橋&ゲート 不飲川

 不飲川
(のまずがわ)を不飲川橋で渡ります、この川の上流で平将門の首を洗ったところ、川水が赤く濁り、以後、誰もこの川の水を飲まなかったと云います、これが川名の由来です、この不飲川には彦根との舟運がありました。

橋を渡ると先程と同種の中山道愛知川宿ゲートがあります。

 街道は不飲橋交差点にて国道8号線に突き当たり吸収されます、左に進みます。

スグ先右手駐車場の奥に
一里塚跡石標があります、愛知川の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百二十二里目です。

先に進むと右手に
ビジネス旅館近江屋(0749-42-2427)があります。

御幸橋の手前、左の
祇園神社前の斜め道を左に入ります、旧道痕跡です。

祇園神社は天保九年(1838)、無賃橋橋神(守護神)として勧請されました、 神社前には弘化三年(1846)建立の対岸との睨み灯籠があります。
一里塚跡 祇園神社前 祇園神社 睨み灯籠

 文政十二年(1829)愛知川宿の成宮弥治右衛門忠喜(ただよし)が四人の同志とともに、彦根藩に架橋を申し出て、天保二年(1831)に完成しました。

橋は
渡り賃を取らないところかから無賃橋(むちんばし)と呼ばれました。

成宮家には
西園寺藤原実丈(さねたけ)の歌「旅人の あわれみかけて むちんばし ふかき心を 流す衛知川(えちがわ)」が家宝として残されています。

広重は
恵智川として、この無賃橋を取り上げています。
御幸橋 木曽海道六十九次之内 恵智川 広重画

 左手遠景に西国三十三所のうち三十二番目の札所観音正寺がある観音寺山、そして無賃橋、袂の標柱には「むちんはし はし銭いらす」と記され、橋上に天秤を担ぐ近江商人を描いています。

 今は突き当たりから一旦右に出て、御幸橋愛知川を渡ります。

愛知川は近江一の大河です、鈴鹿山脈に源を発し、流末は琵琶湖に注ぎます。

この愛知川は別名
人取川とも呼ばれ、出水の度に多くの人命を奪ってきました。

御幸橋は明治天皇巡幸に際し、
馬車を通すために新設されたところから御幸橋と命名されました。

現在の橋は五代目です、橋上からは正面左手に
箕作山(みつくりやま)、右手に繖山(きぬがさやま、観音寺山)が望めます。
愛知川 簗瀬北交差点 愛知川南踏切 睨み灯籠

 橋を渡ると五個荘(ごかしょう)に入ります、簗瀬北交差点を左折し、近江鉄道本線愛知川南踏切を横断し、先を斜め右に入ります。

この右折ポイントには文政八年(1825)建立の睨み灯籠(大神宮常夜燈)があります、ここから旧道は再び復活します。

 旧道に入ると左手に愛宕神社の小社があります、云わずと知れた火防の神です。

次いで右手に
東嶺禅師御誕生地碑があります、東嶺禅師(とうれいぜんじ)は享保六年(1721)ここで誕生しています。

九歳で出家し、駿河の
白隠禅師の元で修行し、臨済宗中興の祖と云われました。

家電を商う前田谿潤堂さんの所を左に入ると
草分け地蔵があります、残念ながら由緒が解りません。

更に奥に進むと左手に
厳島神社があります、安芸の厳島神社を勧請したものです。
愛宕神社 東嶺禅師誕生地 草分け地蔵 厳島神社

 厳島神社の境内には芭蕉句碑「八九間(はっくけん) 空て雨降る 柳かな」があります、元禄七年(1694)芭蕉五十一歳の時の作です。

春雨が止んだのに、八九間もある柳から、まだ雨滴が落ちてくる様を詠んでいます。

旧道に戻ると
小幡人形を飾っているお宅があります、 旧小畑村には小幡人形窯元があります、この人形は小幡でこと呼ばれる土人形です。

細居家が代々継承しています、当初は京都伏見の人形を真似ていましたが、いつしか独特な色使いになり旅人に人気があったと云います。

再び近江鉄道本線を
小幡踏切で横断します。
芭蕉句碑 小幡人形 小幡踏切

 右手に浄土宗法皇山善住寺があります、延文二年(1357)の開基です。

参道口には
聖徳太子御旧跡碑があります、太子所縁のお寺です。。

次いで右手に
小幡神社御旅所碑があります、祭礼において御神体を乗せた神輿が休憩または宿泊する所です、境内の奥には山王神社があります。

更に右手に浄土宗小幡山
長宝寺があります。

長宝寺先を斜め左に入る筋が
御代参街道です。
善住寺 小幡神社御旅所 長宝寺 御代参街道 道 標

 この追分には
道標「右 京みち 左 いせ ひの 八日市みち」があります、日野八日市を経て東海道土山宿に至ります。

この街道は伊勢神宮多賀大社を結び、天皇の名代として公家が代参するのに使われた処から御代参街道と呼ばれました、又、近江商人行商に使われた処から市場通りとも呼ばれました。

寛永十七年(1640)春日局は二代将軍秀忠の病気平癒祈願の為、伊勢神宮から多賀大社へ参詣した際、この街道を通行しています。

 スグ先の旧中仙道ぽけっとぱーくの所から斜め右に進みます、公園には東屋があり大神宮常夜燈があります。

右に進むと右手に臨済宗の
正眼寺があります、ここには安南国書(あんなんこくしょ)と呼ばれる御朱印状が残されています、国指定重要美術品です、これは近江商人ベトナムと交易をした証だと云います。

大同川を渡り、突き当たりを左折します、東近江市役所支所の所に名残の松があります、京方面からはこのが右折ポイントになります。
大神宮常夜燈 正眼寺 大同川 名残の松

 ここからの街道筋には趣のある旧家を多数残しています。

右手に
地蔵堂があり、スグ先の左手にはポケットパークがあります、ここには中山道分間延絵図があります。

ポケットパークの隣に
西澤梵鐘鋳造所があります、門前には鐘が据え置かれています、当家は九代三百年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきました。

梵鐘の
鋳型造りに、野洲の粘土や琵琶湖の砂が適していると云います。

次いで左手に
若宮神社があります。
地蔵堂 中山道分間延絵図 西澤梵鐘鋳造所 若宮神社

 左手松本木材店先の左に入る小路に天保十五年(1844)建立の常夜燈があります。

道標を兼ね「右京道 左いせ ひの 八日市」と刻まれています、伊勢道に通じています。

北町屋バス停先の信号交差点を右に進むと、
近江商人屋敷が建ち並ぶ五個荘金堂に通じています。

信号交差点を越すと左手のポケットパークに
明治天皇北町屋敷御小休所碑があります。

向いの
市田家で休息しています、庭にも明治天皇御聖碑があります、元帥伯爵東郷平八郎の書です。

次いで右手に真宗仏光寺派慈照山
蓮光寺があります。
常夜燈 明治天皇碑 明治天皇碑 蓮光寺

 街道の右手に市田庄兵衛家本宅があります、江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍しました。

北町屋町が購入して、保存しています(市指定文化財)

街道右手に
大郡神社(おおごおりじんじゃ)の鳥居があります、北町屋の鎮守です。

信号交差点にて県道209号線を横断すると
北町屋から石塚に入ります。

次いで右手に茅葺き屋根の
旧片山家住宅があります、大名、武家、公家等が休憩した茶屋本陣跡です、ういろうが名物でした。

角の
金毘羅常夜燈は天保八年(1837)の建立です。
市田庄兵衛家本宅 大郡神社 旧片山家住宅

 五個荘山本郵便局を過ぎると右手に小祠があり、筋を挟んで観音正寺道標があります。

西国三十二番札所の
観音正寺は聖徳太子の建立と伝わる古刹です、万事吉祥の縁結びの祈祷道場です。

街道を進むと、左手
日本寝具通信販売の辺りに石塚の一里塚がありました、江戸日本橋より数えて百二十三里目です。

わずかに残された松並木の先で、街道が国道8号線に突き当たる所に
てんびんの里モニュメントがあります。
道中合羽を着て天秤棒を担ぐ
近江上人像が台石の上に乗っています。
小 祠 観音正寺道標 石塚の一里塚跡 てんびんの里

 五個荘
は近江商人の発祥の地です、てんびん棒一本から豪商にまで立身出世した立志伝がたくさん残されています。

近江商人は行商に出て、つらい状況になるとてんびん千両とつぶやきながら耐えたと云います。

 旧道は一旦国道8号線に吸収され、先の信号交差点を右折し、一本目を左折します、ここから国道8号線の敷設で分断された旧道が復活します。

左折すると右手自治会館の前に
清水鼻の名水があります、今も旅人の喉を潤しています。
この清水鼻の名水は
湖東三名水の一つです、他の二つは云わずと知れた醒井宿の居醒の清水そして十王水です。

清水鼻は
立場でした、雛あられ風の焼米はぜが名物で、立場女郎まで居たと云います。

先を右に入ると
日枝神社の石段があります、本殿は一間社流造りです。
旧道復活 清水鼻の名水 清水鼻の名水碑 日枝神社


 右手の真宗大谷派菩提樹山浄敬寺(じょうけいじ)は天文五年(1536)の開基で、本尊は阿弥陀如来像です。

浄敬寺を過ぎると
五個荘清水鼻町から安土町石寺に入ります、ここから北西の位置に織田信長が築いた安土城があります。

フードショップタケヤスの所を左折します、直進する道筋は八幡道(八風街道)と呼ばれ近江八幡に通じていました。

左折すると右手に
大神宮常夜燈があります。

旧道筋には
愛宕大神が祀られています、清水鼻立場を火災から守ってきた火防の神です。
浄敬寺 フードショップタケヤス 大神宮常夜燈 愛宕大神

 地蔵堂があります、立場に出入りする旅人の安全を見守ってきました。

続いて街道筋には興味深い建物があります、よく見ると一棟の建物の屋根が
茅葺き瓦葺きが混在になっています、ハーフ&ハーフです、しかも紅殻塗りです。

緩い坂を下ると旧道は
国道8号線に吸収されます。

歩道を歩きます、楽しみにしていた
大衆食堂おいそは廃業になっています。

東海道新幹線ガードをくぐって歩道を進むと
東老蘇1号橋地下道が現れます。
地蔵堂 ハーフ&ハーフ 国道8号線合流 東老蘇1号橋地下道

 地下道をくぐり、向いの筋に入ります、町名は
安土町東老蘇になります

 旧道口には道標「中山道 東老蘇 武佐宿へ一里」と看板「安産守護 交通安全祈願 史跡老蘇の森鎮座 鎌宮奥石神社」があります。

街道の右手一帯は
老蘇の森(おいそのもり 国史跡)です、光霊天皇(七代天皇)の頃、この一帯の地が裂け、水が湧いて、とても人は住めませんでした。

石辺大連(いそべおおむらじ)なる者が神の助けを得て、この地にを植えたところ、たちまち大森林になったと云います。

石辺大連は森の主となり、百数十歳まで生きながらえたところから、この森は
老蘇の森と呼ばれました。

この森は
万葉の時代から世の移り変わりとともに数々の歌に詠まれています。

この森の中に
奥石神社(おいそじんじゃ)が鎮座しています、延喜式神名帳に記載された古社です。
旧道口 老蘇の森

奥石神社は石辺大連が社壇を築き、 祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀り、繖山(きぬがさやま)が御神体です。

繖山は
観音正寺がある処から観音寺山とも呼ばれました。

戦国時代には
六角氏観音寺城がありました、この城はわが国最大の山城と云われましたが、永禄十一年(1568)信長の前に、たった一日で落城してしまいました。

三間社流造り桧皮葺きの
本殿は天正九年(1581)織田信長が寄進し、この際柴田勝家が普請奉行を勤めました(国指定重要文化財)。

境内には賀茂真淵、本居宣長の歌碑があります。

本居宣長 夜半ならば 老蘇の森の 郭公(かっこう) 今もなかまし 忍び音のころ

加茂真淵
 身のよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪
奥石神社鳥居 奥石神社

 東老蘇公民館前の陣屋小路を入った所に根来陣屋跡があります。

鉄砲衆で鳴らし、この地を領した旗本
根来家の陣屋(代官所)がありました。

根来衆(ねごろしゅう)は戦国時代鉄砲で武装した僧兵の集団で、紀伊国の根来寺に属していました、根来衆は秀吉に敵対し、根来寺は焼打ちに遭っています。

後に
根来衆は家康の家臣となり、戦功を立て、三千四百五十石の大旗本となり、東西老蘇(六百九十九石)が領地(知行地)となり、根来陣屋が設置され、代官所が置かれました。
陣屋小路 根来陣屋跡 轟地蔵堂 轟地蔵

 先の左手に福生寺があります、天正十六年(1588)僧光阿(こうあ)の開基、本尊は鎌倉中期作の木造阿弥陀三尊像です、本堂は根来陣屋書院を移築したものと云います。

境内に轟地蔵があります、小幡人形による千体仏です、安産に御利益ありです。

 先に進み轟川轟橋で渡ります、轟地蔵は本来この橋の袂にありました、明治に入って福生寺に移設されたと云います、今は常夜燈が設置されています。

轟橋は往時、三枚の石によって架橋されていました、この橋石は奥石神社公園に保存されています。

橋を渡ると左手に
杉原医院があります、医院の庭園は縁苔園と称し、勝本宗益(通称鈍穴)が江戸時代末期に作庭した名勝で滋賀県指定文化財です。

残念ながら街道から垣間見ることが出来ません。

安土老蘇郵便局を越すと右手に
小祠が祀られています、太いしめ縄が飾られています。
村中安全が祈願されています。
轟 橋 杉原氏庭園 小 祠

 安土老蘇郵便局先の信号交差点には新設道標があります、正面「中山道大連寺橋」右面「内野道 右観音正寺 左十三仏」左面「内野道 右八日市 左安土」と刻まれています。

左手に
御神燈があります、奥石神社御旅社です、御旅所とは神社の祭礼の際、神輿(みこし)を仮に鎮座しておく場所のことです。

老蘇小学校を過ぎると右手に
鎌若宮神社があります、奥石神社若宮社として勧請されたものです。

先の右手には
東光寺があります、本尊は平安後期作の阿弥陀如来立像です、六角氏所縁の寺です。
新設道標 御神燈 鎌若宮神社 東光寺伝内堂

 元は観音寺山の麓にありましたが、観音寺城が落城するとこの地に移転しました。

ここは豊臣秀吉の祐筆であった建部伝内(たけべでんない)の寓居跡です、境内の伝内堂には、元禄八年(1695)造立銘の建部伝内の木造が安置されています、当初、伝内は近江の六角承偵(ろっかくよしかた)に仕え、主家が没落すると浪人となり、後に豊臣秀吉に仕え、天正十八年(1590)六十九歳で没しています。

 西生来(にししょうらい)東バス停先の小川の手前右手に泡子延命地蔵尊御遺跡 大根不洗い川碑があります。

茶屋の娘が旅の僧に恋し、僧が飲み残した茶を飲んだところ、妊娠し男の子を生みました、三年の時が経ち。
子を抱いて川で大根を洗っていると、再びこの僧が現れこの話を知ると、僧は子に息を吹きかけると子は泡となって消えてしまいました。

僧は「西方の
あら井の池の中に尊き地蔵あり、この子のためにお堂を建て安置せよ」と云って立ち去ったと云います。

左手に真宗大谷派安養山
西願寺があります、元は天台宗でしたが、貞和四年(1348)教円が改宗し中興しました。

次いで右手に浄土宗圓明山
西福寺があります、天正五年(1577)明感による開基です。
泡子地蔵尊御遺跡 西願寺 泡子延命地蔵

 山門右手のお堂横に
泡子延命地蔵尊が安置されています。

 醒井宿の西行水泡子塚と同じ話です。

泡子延命地蔵の向いに
寺標「不動明王道 是より二丁」があります。

この筋を左(南)におよそ200m入ると
不動明王があります。

先に進むと左手に
MIKIYA、ついで右手に暮らしの衣料三喜屋があります。

この三喜屋さんの所に
西生来一里塚跡標石があります、江戸日本橋より数えて百二十四里目です。

西生来西バス停を越して、
蛇沢川(いさがわ)を渡ると武佐宿は目の前です。
不動明王道道標 西生来の一里塚跡 一里塚標石 蛇砂川

 PM 12:35 武佐宿着 鏡神社まで 6.7km

 牟佐神社の手前に大門跡があります、武佐宿東口です、武佐宿到着です。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると武佐宿の規模は宿内家数百八十三軒、内本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠二十三軒、宿内人口五百三十七人(男二百七十二人、女二百六十五人)、宿並八町二十四間(約873m)でした。

武佐宿は近くに
近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われました。

又、伊勢に通じる
八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わったと云います。

皇女和宮は武佐宿で昼食を摂っています。

牟佐神社は武佐宿の氏神です、又、牟佐神社は市神大明神とも呼ばれ、境内には盛大な市が立ちました、境内の大ケヤキは樹齢三百年以上と云います。
武佐神社参道口の左手が
高札場跡です。
牟佐神社鳥居 武佐神社本殿

 右手に白壁に連子格子の宿役人平尾家屋敷跡があります、庄屋を兼ねていました、古文書を今に残しています。

向いの
広済寺は推古天皇二年(694)聖徳太子による創建です、ここには明治天皇御聖蹟碑があります、明治十一年(1878)巡幸の際、行在所となりました。

左手井田歯科の向いの武佐町会館には鉄骨造りの
冠木門が聳えています、ここが奥村脇本陣跡です、建坪六十四坪の規模でした。

会館前には
馬頭観世音、前庭右手には愛宕山碑があります。
宿役人平尾家屋敷跡 明治天皇御聖蹟碑 奥村脇本陣跡 旧武佐分署庁舎

 宿並には明治十九年(1866)に建てられた洋館の旧八幡警察所武佐分署庁舎が保存されています、文化庁登録有形文化財です。

 隣の魚友楼は明治初期創業の割烹料理屋です。

国道421号線を横断する武佐町交差点の右手前に新設の
常夜燈武佐宿解説があります。

享保十三年(1728)安南国(ベトナム)より徳川第八代将軍
吉宗に献上されたはここを通行し、この先東海道に出て、途中姫街道を経由して江戸に到着しています。

国道421号線は
八風街道と表示されていますが、これは新設です、往時の八風街道はこの先です。
刻限は12:43です、腹が減りました!
魚友楼 常夜燈&武佐宿解説 友定食堂 組合せ定食

 交差点を右折し、国道8号線に出て、友定町交差点を右折すると友定食堂があります。

この食堂はお惣菜がズラーッと並んでいます、好きなものを選んでお盆に乗せ、最後に清算です、この手早さは街道ウォーカーにとっては最高です!!

鯖味噌煮揚出し豆腐ご飯豚汁そしてエビスビールにしました、揚出し豆腐と鯖味噌煮を肴にしてビールを流し込みます、次いでご飯に豚汁を掛け、七味唐辛子をタップリ振って、更に流し込みです、最高です!!!

 武佐町交差点に戻り、渡ると左手に大橋家役人宅があります、十五代目金左衛門伝馬所取締役を勤めました。

隣が
旅籠中村屋跡です、現業でがんばっていましたが、平成二十三年(2011)一月十日漏電が原因で全焼してしまいました、残念です!

向いの郵便局には
書状集箱(しょじょうあつめばこ)が復元されています、ここは伝馬所跡です。

武佐郵便局の隣が
下川本陣跡です、本陣門と土蔵を残しています、建坪は二百六十二坪でした。
大橋家役人宅 旅籠中村屋跡 伝馬所跡 下川本陣跡

 本陣先の十字路、手前左(南)角に文政四年(1821)建立の八風街道道標「いせ みな口 ひの 八日市 道」があります、東海道を経て、鈴鹿山系八風峠を越えて伊勢に通じています。

十字路を越えると右(北)手に
安土浄厳院道道標があります安土道です、浄厳院は天正五年(1577)織田信長が伊賀と近江の浄土宗総本山として再興した寺院です。

宿並の左手には
松平周防守陣屋跡があります、武佐宿は川越藩領でした。
追 分 八風街道道標 安土道 松平周防守陣屋跡 愛宕社

 隣に
愛宕山常夜燈愛宕大神があります。

 宿並から左に入る小路に道標「武佐寺長光 従是三丁」があります、ここから入り、近江鉄道を越えた所にある武佐寺を指しています、長光寺とも呼ばれます。

推古天皇の御代に
聖徳太子が建立した寺で近江の名刹です、本尊は太子の持念仏と云われる千手観音です。

境内の
ハナノキは聖徳太子手植えとも云います。

宿並に戻って進むと右手に
愛宕大神愛宕山常夜燈があります、宿並火防の神です。

愛宕社の隣が
高札場跡です。先に進むと桝形になります。
長光寺道 長光寺道標 愛宕社 桝 形

 桝形内の左手が近江鉄道八日市線武佐駅で、向いが武佐宿西見付跡です、武佐宿の西口です。

桝形を曲がり、近江鉄道八日市線を
武佐踏切で横断すると旧西宿村に入ります。

右手の
若宮神社は寛弘八年(1011)の創建です、隣が広大な空き地になっています、ここが伊庭貞剛(いばていごう)邸跡です、伊庭家近江守護佐々木家の流れをくむ名家です。
屋敷は中山道沿いに
長屋門を構え、広大な屋敷でしたが、近年解体され、街道に面して(くすのき)の巨木を残すのみです。

貞剛は弘化四年(1847)ここで出生しました、尊王攘夷に奔走し、維新後は裁判所判事を経て、住友財閥に入社し、明治二十七年(1894)四国の別子銅山精錬所に於ける、亜硫酸ガスによる煙害問題の解決に尽力し、住友家中興の祖と云われました。
桝 形 若宮神社 伊庭貞剛邸跡

 貞剛
は五十八歳になると事業の進歩発展に最も害をするものは、「青年の過失ではなくて、老人の跋扈だ」と云って、サッサと引退してしまったと云います。

 先に進むと右手に小さな常夜燈があり、奥に鎮火霊璽(ちんかれいじ)があります、火伏の愛宕信仰です。

村外れの
西宿町交差点にて旧道は国道8号線に吸収され、長光寺町に入ります。

左手が
瓶割山(長光寺山)で山頂が瓶割山城跡です、古くは長光寺城と呼ばれていました。

元亀元年(1570)
信長は朝倉攻めに際し、家臣の柴田勝家長光寺城に布陣させたが、朝倉と同盟を結んだ六角承偵(じょうてい、義賢)によって水を絶たれ、あえなく籠城となりました。

そこで
勝家は残っていた水瓶を割って、自ら退路を断ち、背水の陣で出撃し、見事に勝利を納めました、以来、勝家は瓶割り柴田と呼ばれるようになりました。
鎮火霊璽 瓶割山 六枚橋交差点

 左手TCMを過ぎると上田町に入ります、六枚橋交差点を左折します、六枚橋は寛永二十年(1643)時の領主が架けた橋が六枚の板橋であったことに由来しています。

この左折ポイントには地蔵祠大神宮献灯碑があります。

 六枚橋交差点を左折すると上田町から千僧供(せんぞく)に入ります。

街道は一本目を右折します、この右折ポイントには
南無妙法蓮華経題目碑があります。

ここを右折せずに、直進すると
冷泉寺があります、千僧供の地名は、その昔この寺に千人の僧を集めて悪疫退散の祈祷を行ったことに由来しています。

右手富永歯科医院の横に
道祖神が祀られています。
右折ポイント 題目碑 道祖神 供養塚古墳道 御墓道標

 次いで左手六枚橋バス停の手前に道標「住蓮房 安楽房 御墓 是より三丁」があります、手前の草道を進むと供養塚古墳があります。

 直進すると畑の中に供養塚古墳があります、塚上には住蓮房安楽房の墓があります。

住蓮房(じゅうれんぼう)と安楽房は共に浄土宗開祖の法然上人の弟子です、建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野臨幸中に、上皇の二女官[松虫姫(十九歳)、鈴虫姫(十七歳)]が二人の房に帰依し、髪をおろし尼となりました。

翌承元元年(1207)これを知った上皇は怒りのあまり二人の首を刎ね、
法然上人は四国に、親鸞は越後に流罪となりました、これを承元の法難と云います。

法然上人は赦免になると、京に戻り
住蓮山安楽寺を建立し、二人の弟子松虫鈴虫の墓をつくり、菩提を弔っています。
供養塚古墳 住蓮房・安楽房の墓 住蓮房首洗池碑 住蓮房首洗池

 街道に戻ると焼肉味楽亭の手前に住蓮房首洗池があります、この池のほとりで住蓮房は処刑され、その首を洗った池です。


安楽房
は京の加茂川で斬首されました。

 旧道は再び国道8号線に合流します、この合流ポイントにも、先程と同じ道標「住蓮坊 安楽房 御墓」があります。

白鳥川千僧供橋で渡ります、白鳥川(しらとりがわ)は滋賀県湖東地方を流れ、流末は琵琶湖に注いでいます。

橋を渡ると左手に
寺標「具足山妙感寺 従是八町」があります、妙感寺は永仁四年(1296)真言宗の寺院として建立されたが、日蓮上人の教化により日蓮宗に改宗されました。

右手には
高野世継観音道道標があります、世継観世音菩薩は臨済宗永源寺派大本山永源寺のご本尊です。

近江守護職
佐々木氏頼の子、満高が子宝に恵まれず、この観音に毎夜一心に祈願したところ、世継が授かったと云います、以来世継観音と呼ばれるようになったと云います。
御墓道標 千僧供橋 妙感寺道標 世継観音道

 白鳥川を渡ると馬淵町に入ります、街道左手の奥野家は母屋も門も茅葺き屋根です。

右手の
八幡社源義家が奥州遠征の途次、、愛馬が熱病を患い、この地で水を飲ませるとたちまち平癒したので、ここに応神天皇の霊を勧請し、武運長久を祈願したと云います。

この地の守護職で
馬淵氏と称した佐々木広綱が、後に社殿を建立しました。

本殿は元亀二年(1571)織田信長の兵火で焼失し、現在の総丹塗り(にぬり)桧皮葺きの
本殿は文禄五年(1596)に再建されたものです(国指定重要文化財)。
擬宝珠に文禄の銘が残されています。

参道口が
馬淵村高札場跡です。
奥野家 八幡社 馬淵村高札場跡

 八幡社の前から斜め右の馬淵旧道に入ります。

旧馬淵村には茅葺き屋根の旧家や地蔵堂を残しています。

村を出ると一面の田園になります、スグ先で東横関町に入ります、東横関交差点を越すと
旧東横関村に入ります。

中山道分間延絵図には
馬渕村東横関村の境であって、東横関村側に南北二基の一里塚が描かれています。
正確な位置は不明です、
東横関の一里塚です、江戸日本橋より数えて百二十五里目です。
馬淵旧道口 茅葺きの旧家 地蔵堂 東横関の一里塚跡

 東横関村は立場で、横関川の渡しを控え賑わったと云います、室町時代にはこの辺りに関所があり、これが地名の由来になっています。

村内には浄土宗福照寺
宝養寺があります、文永五年(1268)草創による開基で天文元年(1532)の再建です。

村外れで
Y字路が現れます、旧道は左の上り坂です、ここを右に進むと春日神社があります、村の鎮守です。

上り坂は
日野川(旧横関川)の土手に突き当たります、ここが横関川の渡し場跡です。
宝養寺 村外れY字路 春日神社 横関川の渡し場跡

 ここには渡し場の解説常夜燈があります。

広重は木曽海道六十九次之内の中で武佐としてこの渡し場を描いています。

文化三年(1806)作成の
中山道分間延絵図には「平常渡船場、小水之節ハ舟二艘(つな)キ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」と記されています。

広重はこの
舟橋を忠実に描いています、舟二艘を縦に繋ぎ、両舷に杭を打ち舟を固定し、舟の上には渡し板を敷いています。

明治の世になると渡し場跡に架橋されましたが、その後国道8号線が敷設され、
横関橋が架橋されると、渡し場跡の橋は廃止されました。
横関川の渡し場跡 木曽海道六十九次之内 武佐 広重画

 今は土手道で左に迂回し、国道8号線に出て、横関橋日野川(横関川)を渡ります。

橋を渡ると
近江八幡市横関町から蒲生郡竜王町西横関に入ります。

横関川(現日野川)は鈴鹿山脈の綿向山(わたむきやま、標高1110m)に源を発し、近江八幡と野洲の境を流れ、流末は琵琶湖に注いでいます。

渡り詰の右手の
土手道に入ります。

土手道口には
車止めが設置されています。
横関橋 日野川(横関川) 対岸の迂回路口 若宮神社

 若宮神社手前辺りから旧道は復活します、日野川対岸の旧西横関村に入ります。

若宮神社の本殿は一間社流造で、
旧西横関村の鎮守です。

 若宮神社の向いに浄土宗石流山浄泉寺があります、ご本尊は無量寿仏です。

寺伝によると往時は
天台宗でしたが、明暦元年(1655)浄土宗に改宗されました。

次いで左手に真宗仏光寺派
光圓寺があります、万延二年(1861)に再建されました、ご本尊は阿弥陀如来です。

先で川を橋で渡りますが、手前の右手にお
地蔵さんが並んでいます、道祖神かもしれません。
浄泉寺 光圓寺 地蔵群 西横関交差点

 旧道は西横関交差点に出ます、ここからは国道8号線に吸収されます、京方面からは国道の斜め左の細道に入ります。

 西横関交差点を横断すると左角に道標「是よりいせみち みなくち道」があります、東海道水口に通じる水口道です。

善光寺川善光寺橋で渡ります、善光寺川は鏡山に源を発し、流末は日野川に落合います。

橋を渡ると
旧鏡村に入ります、先を斜め左の鏡旧道に入ります、分岐ポイントは日本ペイントビルです。

旧鏡村は中世東山道時代の宿駅でした、江戸時代になると武佐宿と守山宿間が三里半(実測16.1km)と長い為、間の宿として賑わい鏡宿とも呼ばれました。
水口道道標 善光寺川 鏡旧道口 道祖神&旅篭跡

 旧道に入ると右手に道祖神があり、傍らに標識「江戸時代 鏡の宿 旅篭亀屋跡 平成二十三年一月 鏡の里保存会」があります。

 続いて旅篭京屋跡そして旅篭富田屋跡があります。

右手の鏡東草の根ハウスの敷地内に
道祖神群が祀られています。

次いで右手に
愛宕山常夜燈愛宕大神があります。

緩い上り坂を進むと
鏡口交差点に出ます、ここで国道8号線に合流します。

右手に
旅篭吉田屋跡、続いて天台真盛宗月鏡山真照寺があります、鏡神社神官で万葉集女流歌人額田王(ぬかたのおおきみ)を育てた鏡王(かがみのおお)が葬られています。
道祖神群 愛宕大神 旅篭吉田屋跡 真照寺

 右手に旅篭枡屋跡があり、向いに真宗仏光寺派鏡向山大願寺があります、明治になるとここに徳化学校が開かれました。

次いで右手に
愛宕大神が祀られています。

左手は
白井弥惣兵衛脇本陣跡です、本来、宿場以外の宿泊施設は御法度でしたが、中世東山道時代の宿駅であった貫禄かも知れません。

右手明治の
鏡郵便取扱所跡を過ぎると、源義経宿泊の館跡碑があります、碑の後ろには源義経元服の地と染抜かれた幟があります。

義経(牛若丸)が宿泊した白木屋は東山道時代の駅長(うまやのおさ)の沢弥伝の館でした。

当家では
義経元服の際、使用した(たらい)を代々秘蔵していましが、現在では鏡神社宮司林氏が保管していると云います。
大願寺 愛宕大神 源義経宿泊館跡碑

 隣が林惣右衛門則之本陣跡です、新羅三郎義光の後裔(こうえい)です、紀州侯の定宿であり、皇女和宮もここで休息しています。

明治になると
駐在所となりました。

旅篭
加賀屋跡を過ぎると、道祖神が祀られています。

次いで
徳化学校跡碑があります、大願寺に開かれた徳化学校は明治十一年(1878)ここに移転しました、後に鏡小学校となりました。

右手に
鏡神社があります、参道口に源義経烏帽子掛けの松があります。

承安四年(1174)三月三日鏡の宿で元服した牛若丸は、この松の枝に
烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し、源九郎義経と名乗りあげ、源氏の再興と武運長久を祈願しました。
道祖神 徳化学校跡 源義経烏帽子掛けの松

 明治六年(1873)十月三日の
台風でこのは折損し、今はの部分が保存されています。

 PM 4:12 鏡神社着


 本日はここ迄です、この先に進んでも宿はありません。

今宵の宿は西川の
ビジネスホテルまつもとです、国道8号線をひたすら戻ります。

西横関まで戻るとラーメン店
バリバリジョニーがあります、ギョーザ生ビールです。

この組み合わせもベストです!

次いで
黒ビールです、コクがあってうまいですね、これで十分です!!

隣りにコンビニがあります、
寝酒を調達します。

国道8号線を戻ると、西川に入り、積水樹脂の隣に
ビジネスホテルまつもと(0748-58-1535)があります。

トラックドライバーの定宿でしょうか、それなりのホテルです、素泊まり3,000円です。

風呂はまだ沸いていないとの事、シャワーで十分です、例によって洗濯です。

部屋に戻って、軽くストレッチ、テレビのスイッチを入れ、缶の栓をプシューッと抜きます、旅だナー!!!



前 関ケ原 〜 高宮 次 鏡神社 〜 草津追分